私は、父親が書道をしていて、教えていて、環境的に身近に「書」があった。
筆で文字を書いていると、色々なことから離れられ、集中し、自分の世界に入ることが出来る様な気がする。
教室に来られる生徒さんで、「せめて年賀状を筆で書きたい」とか、「芳名帳の名前をきれいに書きたい」とか、「字がきれいに書けると頭がよさそうに見えるから」とか、色々な理由をつけて来る方がいる。
私は、「筆文字は、頭の程度はわからないけれど、その人の性格や心理状況が解るような気がします」と言います。
「目の錯覚」や「目分量」とかは、計算されつくした数学的なものではないかと思う。
それを数字で表すのではなく、筆という道具を使って芸術的に表現するのが、書であると思う。
同じお手本(拓本法帖)を見て、筆で書いても全く同じには書けない。
お手本の様に書くように訓練するのが、書道をする事だと思う。
1+1=2という答えではなく、芸術的に線質を学び取り、錬度を積み、終わりなき追究をしていくのである。
どんなに偉い書家の先生でも、(極め尽くした)という境地に辿り着いたという方や、(自分の書に満足した)と言う方は、いらっしゃらないそうです。
みんな、時間切れで提出したとかいい、奥が深く、同じ物は二度と作れない唯一無二であり、一発勝負で、書き添えたり付け足したり書き直したり出来ないのが、書道である。
今、思う事は、書道という、終わりなき追究の中に居て、その中に身を置ける幸せを感じる事である。