約 22年前、温知会旅行で 安芸の宮島 そして 広島の熊野筆を見学に行った。
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ことわざ 「 弘法、筆を択ばず 」
(意味) 名人・達人などと呼ばれるような人は、道具のよしあしなど、まったく問題にしないということ。
(ことわざ)どんな仕事でも腕が良ければ出来るはずと教えている。
(注釈) 書聖とも言われる弘法大師{空海}は、筆のよしあしを択ばずに常にりっぱな文字を書いたことから。
(記録)弘法大師{774?835}は筆の作り方を学んで、狸毛筆を筆匠に作らせて、時の嵯峨天皇に献上しておられた記録が残ってます。
と、言われているが・・・・・・・
私の父 曰く、 「 弘法、筆を択び得た 」
同じようなフレーズでも 若干の意味合いが違うようだ。
その理由 「 弘法は、竹箒の様な粗末な筆を使った訳ではなく、上等の羊毛の腰のない くたくた とした 筆でも 使いこなした 」 と言うのだ。
ここではちょっとニュアンスが変化していることに気がつく。
一般的な解釈では、弘法のような上手い人は道具である筆には頓着しないで上手い字を書くことができたのだから、一般の人が道具である筆についてグダグダ言うな、という訓戒だと思われています。
しかし、父の解釈ではそうではない。弘法は竹箒のようなささくれだった筆(道具)でも上手い字が書けたのかもしれない。書けなかったかも知れない。ただ、そういうことがいいたいのではない。
上等な羊毛のような腰のない筆を(も)、弘法は使いこなした。
腰のない筆で書をたしなむ機会はなかなか無いものなのだが、臨機応変、融通無碍の境地でその時々に相応しい道具を択びとる能力、それを使いこなす能力が弘法にはあった、という意味なのだ。
つまり弘法は筆を択び得(るくらい技量の幅が広かっ)た、と言っていい。
確かに 上等の羊毛の筆は、初心者はもちろん かなり 熟練した者でないと、使いこなす事が 至難の業と言わざるを得ない。
力説していた 父の言葉が 忘れられない。
私は、自分の3人の子の 胎毛筆を 作って 持っている。臍の緒と共に。臍の緒の箱には、生まれて間もない子の髪の毛2?3本入っている。
胎毛筆とは、生まれてから一度も鋏を入れてない、毛先のカットされてない髪の毛で作った筆の事である。でも、いちばん左にある 長女の物は何度かカットした。