東京江戸博物館の学習室にて、漢字研究会があり、参加した。
師範以上の参加資格。
臨書 「蘭亭叙」(八柱第三本) 「永和九年?至」まで29字を 半切に3行書きと
自運作品創作 「洞庭西望楚江分 、水盡南天不見雲 、日落長沙秋色遠 、不知何處弔湘君 」 七言絶句(李白)を半切に3行書き(書体自由)
2点を書いて行き、批評を受ける。
同一の東雲の名前に自分の番号を書いてのことであるが、
かなりの緊張!!
私は、父親が書道をしていて、教えていて、環境的に身近に「書」があった。
筆で文字を書いていると、色々なことから離れられ、集中し、自分の世界に入ることが出来る様な気がする。
教室に来られる生徒さんで、「せめて年賀状を筆で書きたい」とか、「芳名帳の名前をきれいに書きたい」とか、「字がきれいに書けると頭がよさそうに見えるから」とか、色々な理由をつけて来る方がいる。
私は、「筆文字は、頭の程度はわからないけれど、その人の性格や心理状況が解るような気がします」と言います。
「目の錯覚」や「目分量」とかは、計算されつくした数学的なものではないかと思う。
それを数字で表すのではなく、筆という道具を使って芸術的に表現するのが、書であると思う。
同じお手本(拓本法帖)を見て、筆で書いても全く同じには書けない。
お手本の様に書くように訓練するのが、書道をする事だと思う。
1+1=2という答えではなく、芸術的に線質を学び取り、錬度を積み、終わりなき追究をしていくのである。
どんなに偉い書家の先生でも、(極め尽くした)という境地に辿り着いたという方や、(自分の書に満足した)と言う方は、いらっしゃらないそうです。
みんな、時間切れで提出したとかいい、奥が深く、同じ物は二度と作れない唯一無二であり、一発勝負で、書き添えたり付け足したり書き直したり出来ないのが、書道である。
今、思う事は、書道という、終わりなき追究の中に居て、その中に身を置ける幸せを感じる事である。
《5月16日》
下の畑の様子。写真右手が道路側、写真左手が田んぼで南側に位置する。
見えている葉は、サツマイモ。
私も見よう見まねで、畑に挑戦。
この間、ジョイフルにサツマイモの苗を買いに行った時、2?3人の人が悩んでいる所に遭遇した。
「何が問題なのですか?」と聞いてみた。
「今あるこのサツマイモの苗は、薬に漬けてあるから、サツマイモが丸っこく育ってしまう。ウィルスフリィーというのだと、細長くかっこいいのが出来る」というのだ。
私も、その時は買わないで、3日ほど前に買った。
この畑は道路側にひまわりの花、その内側にトウモロコシ、その脇に里芋、その脇にサツマイモが並ぶ予定である。
去年まで、水色の大きな花弁のジャーマンアイリスがきれいにたくさん咲いていたのに、今年は一つも花を見ないのは、球根が吸収されたか、誰かが掘っていったか?
今年も、睡蓮の花と、菖蒲の花が、咲き始めた。
友人と3人で、郵便局の近くの「ガーデンショップ」なる所に出かけた。
閑静な住宅地で、大きなお宅の庭と車庫で、(アクセサリィー・草花の苗・陶器・小物・手作りケーキとお茶セット)などが、所狭しと並び、ミニショップのお店にはそれぞれそれを作った女性達がにこやかに応対していた。
私も、ネックレスとピアスを買った。
そのお店で、「何年か前、書道展で行ったウクライナで買ったアメジストの原石で作られたネックレスの留め金が壊れたのだけれど、修理してくださるかしら?」と、聞いてみた。
「いいですよ」の返事に、思わず「ワー、嬉しい、ありがとう」と、反応した。
気に入っていたものだけに、デパートとか、装飾品店に、持参して聞いてみたけど、「完全に元のように直せる保証はありません、ので、お断りいたします」と、何度も言われていたのだ。
「糸を通し直して、留め金も取り替えます」と言ってくれ、18日に出来上がる。
連れて行ってくれた友人を家に招き、お昼を一緒に食べた。
用足しをしてから、高野で草取り、胡瓜とミニトマトとナス苗に棒で支えをたてた。
草は元気がよくて、次から次から、生えてくる。
今、明日お稽古に持っていく、書の作品整理をしている。
アー、もうこんな時間。
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